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タケちゃんさんの新着日記

2010/09/29 11:51:00
私の好きな最強武将列伝 第五回
前回の「島左近」編に続き、
早々と第五回目を書かせて
頂く事になりました。
今回の主人公はこちら!


      明智光秀
  1528?〜1582
前回の主人公「島左近」も謎の多い人物
でしたが、このお方もミステリーの
?塊?のようなお方です。
戦国時代最大の「ミステリアス武将」
(略して!「ミス武将」・・・女性?!)
と言っても過言ではないでしょう。
その出生もさる事ながら、何と言っても
最大のミステリーは
?本能寺の変?
ではないでしょうか。
当時小学生のわたくしは、この事実を
社会の授業で知った時、
「なして?」 
「なしてそっぉだな おっそろスィことを?」
と興味津々。明智光秀という人物に
引き込まれていった事を、今でも
覚えています。
まぁ、その辺の話(本能寺の変)は
後程として、出生の頃から
その生涯を追っていきましょう。
・・・とは言っても、出生1528?→「?」
とあるように・・・いきなり分からんのです!
1528年出生とあれば、1526年、
1515年など複数あり、生まれた場所も
岐阜県可児市、山県市、恵那市など
様々のようです。
したがって、通説となっている話を簡単に
分かりやすくご紹介します。
諸国を放浪した明智光秀は
やがて「朝倉氏」に仕えるようになります。
ここでちょっと「朝倉氏」の紹介をしますと、
朝倉氏こと朝倉義景は
越前国(現在の福井県)の戦国大名。
義景の代で11代目の伝統ある由緒正しい
名門の戦国大名です。
朝倉義景に仕えていた光秀はその後、
朝倉家に身を寄せていた
足利義昭に仕えます。
?足利?と聞いてピンと来た人も
いると思われますが、そうです!
室町幕府(室町時代)を築いた将軍、
足利尊氏様であります!
義昭は尊氏から数えて
15代目の将軍となる人物です。
ここで、なぜ将軍家の足利義昭が
ひっそりと朝倉家に身を寄せていたのか
を、説明しなくてはなりません。
足利義昭は12代将軍・足利義晴の
次男として生まれます。
次の13代将軍は長男の義輝が
継ぐ事になりますので、義昭は昔からの
慣例に習い
?仏の道?
へ入る事になります。
へっ?
15代将軍になるはずじゃないの?
と、お思いのあなた!
ここからですよ!ここから!
ある時、大事件が起こります!
?13代将軍・足利義輝暗殺事件?
              (永禄の変)
ガーン!何ということでしょう。
兄であった義輝が殺されてしまうのです!
犯人の名は三好三人衆と呼ばれた
三人の人物と、もう一人は?松永久秀?
・・・んんっ!松永久秀と言えば・・・
前回の「島左近」編にて
?筒井氏VS松永久秀?
とあったその人物です!
(詳しくは 第四回
「島左近」をご覧下さい。)
その後、松永久秀と三好三人衆は
?意のままに操れる将軍?を立てます。
「14代将軍・足利義栄」の誕生です。
久秀は事実上、将軍家を
乗っ取る事に成功した訳です。
?将軍?という?大スポンサー?を
得た久秀は次々と近隣の国々を
制圧していきます。
その戦いの中に、前回の筒井氏との
戦いも含まれていた訳であります。
(しつこいようですが、詳しくは 
第四回「島左近」編をご覧下さい)
殺された兄の弟であった義昭は
身の危険を感じ、国を出ます。
様々な国を渡り歩き、
朝倉家に滞在している時に
明智光秀と出会ったのでした。
足利家と明智家が
近い縁だった事もあり、
光秀は義昭に仕える
ようになったのです。
しばらくすると、義昭の中に
メラメラと復讐(リベンジ)の
炎が燃え上がります。
さっそく義昭は朝倉義景に対し、
「打倒!三好三人衆&松永久秀」
の軍を出してくれ!と頼みます。
しかし、朝倉義景は動きません。
そもそもこの義景はあまり野心家
ではなく、どちらかと言えば文化人
としての気質の方が強い人物でした。
〜信長との出会い〜
業を煮やした義昭は
明智光秀に
「何とかせい!」と、
スポンサー探しを申し付けます。
命を受けた光秀は、
その時売り出し中の
イケイケ武将に目を付けます。
その勢いは凄まじく、
その若さにして大ベテラン大名の
今川氏、斉藤氏を討ち負かし、
当時の戦国時代に一大勢力を築き始めた
若き猛将!その名は・・・
?織田信長?
その人でありました。
しかも運の良い事に、信長の奥さんが
光秀の親戚だった事もあり、
話(スポンサー依頼)は
とんとん拍子に進みます。
話がスムーズに行ったもう一つの
背景としては、
信長側の事情もありました。
名だたる大名がひしめき合う
戦国の世において、
パッと出の若い信長にはどうしても
?大きな後ろ盾?(スポンサー)が
欲しかったのです。
それが将軍家となれば
願ったり叶ったりで、断る理由など
どこにもありませんでした。
ここに、義昭の?復讐?(リベンジ)と
信長の?野望?とが見事に合致し、
タッグを組む事になります。
一方、14代将軍義栄のいる京では
三好三人衆と松永久秀の対立が
起きていました。
家臣達の様々な権力の奪い合いで、
義栄の幕府の内部はガタガタに
なっていたのです。
ちょうどそんな時に、
織田信長と足利義昭が京に入ります。
朝廷(天皇)に働きかけ、
義昭を15代将軍へと推薦するのです。
ボロボロになっていた義栄の幕府
を見かねていた朝廷(天皇)は、
義昭を15代将軍と任命。
「第15代将軍 足利義昭」が
ここに誕生したのでした。
義昭と信長を引き合わせた
光秀の働きは?将軍誕生?にまで
発展した訳ですから、
大変大きかったものと言えます。
義昭にも信長にも大きな恩を貸した
事になるのではないでしょうか。

〜信長の家臣へ〜
最強タッグに思えた
足利義昭と織田信長との関係にも、
やがてヒビが入り始めます。
光秀は将軍 足利義昭のもとを去り、
織田信長の家臣として
新たなスタートを切る事になりました。
光秀は、信長の野望である
?天下統一?の為、懸命に働き
武功(成績)を上げていきます。
信長が命じた比叡山延暦寺の
焼き討ちで活躍し、
5万石を与えられます。
その後も次々と、石山本願寺、
信長に背いた荒木村重、
そして松永久秀を討ち倒し、
気付けば34万石の領地を
手にするまでになりました。
しかもその目覚しい活躍から、
信長より
「近畿地方全体の総指揮官」
を任命されるようになります。
信長の家臣としては新米の光秀が、
これほどの高評価を受けるほど、
政治・軍事において、
優秀な武将だった事が分かります。
と同時に、信長もまた光秀を信頼し、
寵愛していた事がうかがえます。
また光秀は大変な文化人で和歌、
茶道、などにも詳しかったようです。
信長も文化人としての一面
は知られていたので、
趣味はよく合ったのだと思います。

〜本能寺の変〜
織田信長は勢力を強めていきました。
ついには京を始めとした近畿地方全体
とその周辺を、ほぼ手中に収めます。
関東一帯を治めていた北条氏と
東北の伊達氏、九州の大友氏も
信長に従う姿勢を見せていた為、
事実上信長は?天下統一?にまで
あと一歩のところまできていました。
残る敵は中国地方の毛利氏と
四国の長宗我部(ちょうそかべ)氏、
北陸の上杉氏、
九州薩摩の島津氏でした。
ある時、光秀の1万3000人
の軍隊は、中国地方の
毛利氏と戦っている羽柴秀吉
(後の豊臣秀吉)の援軍に向うよう、
信長より命じられました。

天正十年(1582年) 5月29日
信長も同じように羽柴秀吉の
援軍に向う為、滋賀県にあった
安土城を僅かの兵とともに出発。
同日には京にある本能寺へ到着。
兵庫県の亀山城から出発した
光秀の軍隊を待ちます。

6月1日
この日、信長は本能寺にて
茶会を開いているようです。
明日には光秀の軍隊が到着する
だろうとウキウキだったの
でしょうか・・・
これが人生最後の
茶会になるとも知らずに・・・。
6月2日 早朝(午前4時頃)
光秀は京都にある桂川を渡った
ところで、突然こう宣言します。
「敵は・・・本能寺にあり!!」
光秀の軍は完全に本能寺を
包囲します。
信長は明智光秀の裏切りだと知ると
「是非に及ばず」と言い
槍を手に取り奮戦しますが、
殺到する兵からの攻撃を受け負傷。
それ以上の攻防を断念し、
奥の部屋にこもり、
寺に火を放たせたのち
自らの命を絶ちます。
?本能寺の変?はこのような
流れで起こったわけですが、
やはり疑問に思うのは、
「なぜ光秀は信長を裏切ったのか?」
です。
最近の史料では少なくとも、
本能寺の変より4〜5日前までは
光秀に裏切る意思は
無かったのではないか?
という説がありあます。
その説とは、羽柴秀吉の援軍に
行く為の支援をして欲しいという
?書状?を、光秀が知人に
送っていた!とする史料が
発見されているからです。
この時は秀吉への援軍として
?中国地方に行こうとしていた?
または、?そういう気持ちでいた?
というもの。
ただ、頭の良い光秀の事ですから
?敵を騙すには、まず味方から?
の言葉通り、暗殺計画の一部
だったのかもしれません。
つまり?書状?は?フェイク?
だった。という訳です。
もうこうなると、何がホントで
何がウソなのか分かりません。
歴史学者の先生方もいろんな説を
唱えるようになります。
信長に対しての怨み説、
天下統一への野望説、
誰かから頼まれた黒幕説、
その他モロモロ。
いずれにせよ、主君(社長)に
刃を向けたのですから、
ただではすみません。
〜明智光秀の最期〜
信長死亡の一報を受けた
羽柴秀吉は、敵方の毛利氏と
一方的に和解をし、
休戦状態とします。
そして、すぐさま約3万人の
軍勢を率いて京に向います。
後に「中国大返し」と言われる
この?強行軍?で、
秀吉の軍は7日間という
?驚異的な速さ?
で京都に到着するのです。
文章にすると簡単に京へ着いた
ように思えますが、7日間で京都に
着くには1日平均で約30キロ
の移動をしなければなりません。
全長は190キロに及びます。
しかも1人ではなく、3万人もの
人間が一斉に移動する訳ですから
容易な事ではありませんでした。
こうして、明智光秀1万3000
の軍勢と羽柴秀吉4万の軍勢
(大返しの道中で、他の
信長家臣達の軍が加わった)
は激突する事になりますが、
圧倒的に数で勝る
秀吉が勝利します。(山崎の戦い)
戦いが始まって2時間後には決着が
つくという、
圧倒的な秀吉の勝利でした。
敗れた光秀は僅かな兵と共に
逃げようとしますが、
その途中で落ち武者狩り
に殺されてしまいます。
殺害したのは百姓の中村長兵衛。
光秀は竹槍で突かれ、絶命します。
光秀の首が本能寺にさらされたのは、
本能寺の変より僅か13日後の
ことであったと言われています。
いや〜壮絶な生涯ですね。
最期は兵士ではなく、
戦いの素人のはずの
?お百姓さん?に
殺されてしまいます。
しかも竹槍で!・・・でも・・・
全身を鎧で守られて、
しかも刀を持っている
武士がそんなに簡単に
殺れるものでしょうか?・・・
わたくしは光秀のその後をさらに
調べてみました。
すると!
あったーー!!
「光秀は生き延びていた説!!」・・・
どこまでミステリアスな人なんだ・・・。
〜最後に〜
結論を言いますと、光秀が
?本能寺の変?を起こした本当の動機
は分かりませんし
(結局わからんのかい!)、
わたくしも分からないほうが面白い!と
思う人間なので結論は出しませんが、
(逃げたな・・・)
最後に光秀の人格が垣間見える
逸話を一つ。
朝倉氏に仕える前の放浪時代に、
光秀は毛利元就(もとなり)の下で
働きたいと思い、
面接を申し込みます。
一通り面接が終わると、元就は
光秀にこう言います。
「あなたの才能は並々ならぬ
ものがあり非常に魅力的ではある。
しかし、あなたの中にはもう一つ
?狼?
のような一面が眠っている。
採用すれば、利益と同じだけの
?災難?
が私に降りかかるだろう・・・」
そう言って、毛利元就は
光秀の採用を断ったのです。
このエピソード、あなたは
どう考えるでしょうか・・・
それはあなた次第です!
フヒヒヒ・・・

参考資料  ウィキペディア 「明智光秀」
                  「足利義昭」
                  「本能寺の変」
                  「山崎の戦い」
        新星出版社  「戦国時代」


元記事:http://leon-chitose.jugem.jp/?eid=150

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